長崎を訪ねて

原爆投下地点
原爆投下地点

2013年8/7(水)~8/12(月)長崎を訪ねました。

コープおきなわへ提出したレポートを転載します。

 

 

 

 

 

2013 ピースアクション in ナガサキ参加感想文 

 

【序章・・・・物語の始まり】

小学6年生の子供と一緒に参加させていただきました。私は修学旅行以来の長崎で、原爆資料館の展示物や天主堂(どこだったかは忘れていた)をうっすらと思い出すくらい。短い3日間(∔3日間)ですがじっくりと長崎を歩く事が出来ました。親子で行く事の出来る最後の機会、選んでいただきありがとうございました。感謝です。

 

羽田や神戸空港は使い慣れていますが、福岡空港は殆ど初めて。「荷物は出来るだけ手荷物にして預けないように。かなりタイトなスケジュールなので」と東江さんに言われたのですが、汗っかきの私には無理だったので、スーツケースにはたくさんの着替えを詰め込み手荷物預けの手続き。那覇空港の受付カウンターの方に、私たちのスケジュールを見ていただきました。「福岡空港が初めての場合、地下鉄を探してJR乗り場を探すにも時間がかかります。手荷物を預けなくともこのスケジュールでは難しいかと思います」と言われました。本来は出来ないそうなのですが、預ける荷物が早めに出て来るようにお願いして(荷物にDoor Sideのタッグをつけてもらう)出発しました。

 

ANA(全日空)を利用するのは久し振りで、シートの前幅、横幅の広さに安らぎを感じつつ離陸。福岡はとても近く1時間半で到着。娘にも「これからは勝負だからね。とにかく最善を尽くそう。たぶん、大丈夫」。預けた荷物を受け取り「さ、急ぐよ」と出口に出たら、どこかで見たようなオジサンが立っていて、親しげにこちらを見ています。「誰かな、誰?」と思っていたら、何と東江さんでした。あれ、東江さんは広島だったのでは?と思ったのですが、私たちの様子を確認して帰路に着く予定だったようで、東江さんの応援の言葉を背にして親子二人で地下鉄に向かいました。

 

地下鉄の福岡空港から博多までは乗車5分間とかなり短く、あっと言う間に到着しました。

「さあ、これからは本番。JR特急かもめだ」とみどりの窓口へ。今思うと、地下鉄構内からどうやってみどりの窓口へ向かったのか記憶がありませんが、窓口に到着した時はパンフレットに指示されていた「1155発 特急かもめ21号」の15分前には切符売り場に到着する事が出来ました。「なんてラッキーなんだ」と思いながら、二人分の2枚きっぷを購入。乗車まであと10分。今度の難関は自由席で座れる事ができるかどうか。

 

自宅で特急かもめ指定席の空席を調べていたら、どんどんなくなっていて、出発数日前にはなしに。もしかしたら2時間近く立ったままかも知れないよと娘には先に言っていました。以前、名古屋から東京行き新幹線自由席で、3時間立った体験があり、かなりきつかったので、座れるようにと願いつつ自由席待ちに並びましたが、それがまた長い。電車に乗り込むと自由席はどんどんと埋まって行きます。子供と一緒なので、出来るだけ近くに座れるようにと思っている時に、両通路側だけ空いている場所が!ここだとばかりに二人で別れて座りました。何とラッキーな事か!大きな荷物と一緒なので、両脚はきつめでしたが、座れない事からするとなんてことありません。福岡空港から特急かもめに座するまでの流れを思うと、怪我もなく、スムーズに進む事ができ感謝、感謝の旅の始まりでした。

 

【全体を通じて学んだこと】

長崎駅から路面電車に乗り、浜口町で下車。今日から3日間お世話になる「長崎シティーホテルアネックス3」にチェックイン、しばし休憩し原爆投下中心地碑がある場所へ徒歩で移動。碑は平和公園の一角にあります。碑に向かう間に、長崎原爆投下に関する勉強会をしながら、話を聞きながら小さなツアーを組みながら、たくさんの人たちが歩いている姿が目に留まります。普通の観光客の雰囲気がありません。遊びに来た、バカンスに来た観光客とは違う雰囲気を醸し出しています。「私たちと同じような目的で来ている人たちなんだ」と感じました。

 

長崎は暑かった。湿気があり気温が高い。平和公園は木々が生い茂ってはいますが、碑を遠くに囲むように木々があり、その下にベンチがある。碑はぎらぎらと照り付ける太陽の光の下に座し、その周りにたくさんの千羽鶴と、平和ツアーで説明を受けている人たち、祈りを捧げている人たち、木陰でしばし休憩している人たちがいます。私と娘は千羽鶴をかけている場所をぐるっと周ります。日本全国、いろいろな団体、グループの名前で千羽鶴が掲げてあり、その中へ「命どぅ宝」のタグを添えて、コープおきなわ代表として娘と私で奉納し手を合わせました。

沖縄ではこの時期、まだクマゼミが鳴いている時期ですが、長崎ではつくつくぼうしが鳴いていて、夏の終わりの始まりを告げていました。68年前、原爆投下。私は現在48歳なので、私が生まれるほんの20年前にそれは起こったと言う事。生れて死ぬまでの間に、人はそれぞれ艱難辛苦にぶち当たりなら、一歩ずつ成長して行く訳ですが、戦争と言うものは一般的な苦しみではない。激しさ、辛さ、痛み、苦しみは長きに渡り、体と心にのしかかってくる。体験した者にしか到底わかる事が出来ない、苦しみがあるのだ・・・・と感じ入るしか私には出来ないと思った。

 

「城山小学校はこうやって行くんですよ」とホテルを出る前、フロントの方に教えてもらったのは良かったのだけれど、到着して時間があまりない中で、情報を整理するには頭がまとまっておらず、土地勘もないのも重なって、1530出発の「被爆校舎を訪ねて~城山小学校コース~」の待ち合わせ場所を城山小学校と勘違い。城山小学校の階段100m手前で、「何か違う!場所、ここじゃないはず」と引き返し、今度は式典会場へ向かい、ここでも「ここじゃない!」と、結局最初に千羽鶴を奉納したあの場所、原爆投下中心碑が集合場所だと気づき、せっかく30分も前に到着していたにも関わらず、私と娘は城山小学校、式典広場を経由して、5分遅れで長崎コープの方々を合流しました。遅くなり申し訳ありませんと事情を伝えましたら、笑顔で大丈夫ですよとおしゃっていただき、コース巡りが始まりました。

 

コース説明を担当されたのは、昭和12年生まれ(御年76歳)の田端さん(男性)。

長崎へ投下された原爆はプルトニュウムであったこと。地上500m上空で爆発するように投下されたこと(最大の殺傷能力出すため)。松山町の住民は1人を残して全員、死んでしまったこと。爆心地から500mほど離れた城山小学校の生徒も約1300名、先生方も数名を残して即死したこと。

話しを聞きながら、自分の今住んでいる場所でそれが起こったとしたらと考えた。我が家の近くの読谷小学校の生徒も先生も即死で全滅し、私の住んでいる波平、高志保、都屋、長浜は1人の住民を残して即死であると言う事になる。自分自身の事として置き換えた時、その凄まじさの幾ばくかが伝わるのではないだろうかと思う。

 

コース説明者の田端さんが「沖縄も悲惨だったけど、長崎も酷かったんです」とおしゃっていた。私自身も小さい頃から、沖縄戦の悲惨さを学ぶ機会は多かったと思う。戦争を体験していない人たち(子供たち)は、体験者から聞く事、戦争がどういうものであったかを知る事から始まる。それがスタートとなる。

ここ数年、私は新たな思いを思うようになっている。「沖縄戦以外の場所で、いったい何があったのか。どのくらいの人々がどんな風になってしまったのか」を、沖縄戦同様に知ることが大切なのではないかと思うようになった。断片的に知っているが、本当のところ、長崎ではどうったのか。広島ではどうだったのか。東京大空襲では、神戸大空襲ではどうだったのか・・・等々。

「戦争はもうこりごりだ」と言う思いのもとに、戦争で犠牲となり、人生を大きく左右されてしまった人々が日本全国にいる事。悲惨さに上下をつける事を一旦傍に置き、皆が辛い思いや悲酸さを強いられてしまったことを、共通の認識とし戦争のない世界、これ以上の被爆者を出さない世界を作って行く地球市民でありたいと思う。

また同時に、現在地球の至るところで紛争があると言う事。新たな兵器(光線、ガスなど)を使い、また少年・少女を兵士にし、洗脳し子供たちを兵器として使っているような事など。

今もあるという事を知ってほしいと思います。

 

8/8(木)、長崎市立図書館での「奥村アヤ子さん じっくり聴く被爆の証言」。各地のコープ代表者たちには、私たち同様に親子で参加されている人たちがいっぱいいた。子を持つお母さんたちは、危機感を持ち参加しているのだと感じました。

父と兄の後ろ姿(最後に見た二人の姿)、焼けただれた4歳の弟(2か月後に痛みの中で死んでしまった)、母や姉たち、家族が一瞬のうちに姿形ごと消え去ってしまったアヤ子さんの現実は、68年たとうとも癒される事ない。「今でも辛い心が残ってしまっているけれど、あの辛さは消える事はないけれど、私が生き残ったのには、この話を伝えてゆかなきゃならんと思っています。」とおしゃっていた。会場のお母さん方皆が、辛い話を通して戦争はイカン、原爆はイカンと言う事が強く心に届いたはずです。現地に足を運ぶ事で、顔と顔を突き合わせることの出来る近い距離で、直接話を聞けた事に心から感謝します。

 

奥村アヤ子さんの証言を聞き、午後からは長崎市民会館 文化ホールにて「ナガサキ虹の広場」があった。女児高校生の蛇踊り、生で初めて見て感動でした。素晴らしい。噂に聞く長崎市長のスピーチ、心に届きました。オスロ会議に参加された朝長さんの「核兵器の非人道性」報告。「非人道性」と言う言葉は、何て的確なんだろうと思いました。人の道に反すること・・・・という事です、まさにその通りです。

平和、和平と言うのは、口で言うほどには簡単ではありません。たくさんの人々がいて、それぞれが仕事を持ち、家庭を持ち、それぞれに価値観で生きているから、その価値観の相違ゆえに、そこに反論が起こって来る。

私はインドのガンジーの諦めない、あの心に賛同します。またマザー・テレサの目の前にいる人を助けて行く、あの行動力に賛同します。

最後に皆で歌った「花は咲く」。福島原発、東日本大震災をもとに作られた歌ですが、今もまだ苦しみ続けている人々、全員の歌でした。

 

8/9(金)被爆68周年 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典への参加。本当にたくさんの、たくさんの方々が、日本国内、海外からも来ていました。東江さんから「早めに行って、テントの下で座れるようにしないと、かなり暑いので」のアドバイスで、私たちも1時間前には入場。テント下の椅子には座れませんでしたが、公園の花壇のレンガに席を取る事が出来ました。それがありがたい事に、テントや木々の木陰で陰になり、待ち時間1時間、式典1時間10分程の間、ずっと陰で参加する事が出来ました。炎天下の中だと私も娘も体力が持たなかったと思いますから、ありがたかったです。

 

式典で歌われた「LOVE SONG~すべての悲しみに上に~」の歌、心に沁みました。

 

「悲しい時代はもう 終わったはずなのに

また違った形で 悲しみが胸を襲う

ブラウン管の中の さまよう子どもたちは

あれからどうしたのだろう 誰も教えてはくれない

痛みも届かぬ遠くの 出来事だと言ってしまえば

それは人として余りにも悲し過ぎるから・・・・

 

母親たちの流した その涙を思い起こせば

もうこれ以上 悲しみを 繰り返さないよう・・・」

 

そこには奥村アヤ子さんのおっしゃった「平和の原点は、人の痛みが分かる人」につながります。長崎市長のスピーチ、目と閉じてずっと聞いていました。こんな素晴らし市長を選んだ長崎市民の志向する力とその質があってこそだと思いました。被爆者代表の築城さんのスピーチも体験した者が放つ、力強さと決意があり、聞く者を勇気づけ、鼓舞するものがありました。1時間ちょっとの式典を終え、娘と共に祭壇に手を合わせ、祈りを置いてホテルに戻りました。そして来年、沖縄の慰霊の日の式典に初めて参加してみようと思いました。

 

娘と話したのですが、この3日間は1週間くらいの感じがしたねと。湿気、暑さの中、私たちはパンフレットを片手に、道々迷いながら、地元の方に行先を教えてもらいながら、行先にたどり着きました。長崎の印象、朗らかさと優しさでしょうか。私が出会った人々がたまたま朗らかで優しい人・・・・だったのかも知れません。しかしこの地域が長きに渡ってクリスチャンの方々がいる事や、原爆投下による体験が、朗らかな優しさにつながっている気がしてなりません。

 

 

【終章・・・・8/9以降、帰沖まで】

長崎派遣が決まった時、娘に「お母さん、せっかくだから少し長く長崎に居れないかな」と言われました。そこで東江さんにお願いしたところ、快諾いただき帰沖を8/12(月)に変更してもらいました。

 

8/9(金)の式典を終え、ホテルアネックスに戻りました。私たちが次に行くホテルは、浜口町から北方向、バスで40分ほどの所の時津(とぎつ)と言う町です。「これからどうされるんですか?」とホテル支配人に聞かれたので、「本当はこちらのホテルに連泊したかったのですが、空いてなかったんですよ。それでこれから時津に行きます。バスで行くので一旦長崎駅まで行ってバスに乗ります。土地勘がないので近くのバス停がわからないのです」と話しましたら、「近くで乗れますよ。」と親切に教えていただきました。浜口町のバス停から時津行のバスに乗る事が出来ました。

時津は8/8(木)、話をしてくれた奥村アヤ子さんが家族全員を亡くし、親戚の叔母宅にお世話になったと言っていた町で、海が広がり山に囲まれた小さな町です。浜口町バス停からだと約30分はかかりますから、人の足で歩いてとなると・・・小さなアヤ子さんは8月の炎天下、どれほどの思いだったのだろうと思いを馳せました。

 

8/10(土)、娘に是非見てもらいたい場所があるとい事で、原爆資料館へ行きました。私が中学3年生だった頃は、こんなにきれいな館ではなかったと思います。ただ記憶に残っていた、11時2分で時を止めた時計がありました。館内には説明をするボランティアの方々いましたので、女性の方にお願いして小学生にもわかる説明コースで1時間程一緒についていただき、館内を巡りながら話を聞かせていただきました。話を聞きながら、私自身が学校で習った事を多く忘れてしまっている事や、改めて原爆の威力の凄まじさを知る事が出来ました。説明をしてくれた女性の方は68歳(もっと若く見えました)。その方は戦後に生まれたそうですが、姉2人を原爆で亡くしてしました。

「昨日も沖縄の若い人たちが来ていましたよ。沖縄戦だけでなく長崎の原爆の事も知ってほしいですね」とおしゃっていました。

 

時津には長崎バス時津営業所があり、そこで長崎市内へのバスの乗り方を丁寧に教えていただきました。また「長崎バス 市内一日乗車券(大人500円 子供250円)」を利用して市内は乗り降り自由で動くことが出来ました。

娘と私は松山町のバス停に戻り、そこに書かれている観光名所板を見て、「中華街に行ってみよう」と言う事になりました。バスの旅は路面電車に比べて快適です。すいているので座る事が出来るからです。観光客もあまり多くなく、地元の人たちが利用しています。

中華街には福建通りと言う通りがあり、近くには寺もありました。福建と聞くと沖縄を連想しますが、福建の人々は沖縄を経由して長崎にも足を伸ばし、定住していたのが分かります。考えてみれば、ペーロン船、蛇おどりも中国的です。

 

8/11(日)は私の行きたい場所があって、浦上天主堂、大浦天主堂に行って来ました。長崎の教会文化に興味があったのと、ステンドグラスの美しさを娘にも見せたいと思いました。小学生の娘にとっては、天主堂(教会)にあまり興味はありませんでしたが、行った体験が後々、何かの足しになると思います。娘にとって面白かったのは、浦上天主堂近くにある浦上公園。小さな公園にぶら下がって自分の体重でくねりながら移動する遊具があり、それが楽しくて30分くらいずっと遊び続けていました。

遊び終わってから、木陰のベンチに座り手作りサンドイッチ(包丁とビニール製まな板を持参しました)を食して、大浦天主堂に行って来ました。

 

8/7(水)からだと5泊6日の旅になりました。東江さん、そしてコープの皆さん、今回は派遣に選んでいただき、ありがとうございました。また帰沖日を延長していただき、感謝しております。他の所に足を伸ばす事が出来ました。娘にとっても、そして私にとってもですが、貴重な体験となりました。直接出向く事の大切さを感じました。

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8月